現在、来年の創立20周年のために、勝手に20年史を執筆中である。
その20年史からは漏れるが、これはというエピソードを今後、ネタとして紹介できたらと思っている。
今回はその第一弾。(というと、今後も続きそうだが、一回で終了するかもしれないです)
平成7年(1995年)頃の話だから、もう13年以上昔の話になるが、
その頃、団にはまだ、創立時のメンバーが2〜3人残っていて、練習の進行に力を発揮していたことがあった。
当時の団員数は10名をやっと越える程度。
各パート0〜2名などという練習環境は日常茶飯事だったので、
そういう積極的なメンバーが音取りのままならないパートに臨時で異動(というよりは「移動」かな)して、
全体がようやく合唱として成立するのに一役買っていたなんてことがあったのだ。
古き良きコーラス風景とでもいおうか…。
その前年、前橋男声合唱団には大きな転機が訪れていた。
創団以来の指揮者がそのポストを辞去し長期間空席となっていたが、
中曽根敦子氏が、正式に常任指揮者として後を襲ったのだ。
このことは、小団サイト15年史(こちら)に詳しい。
翌年の平成8年(1996年)に第1回自前演奏会で成功を収めるべく全権を委任された中曽根女史は、
様々な技術的改革に着手する。その一つが、適材適所を求めるパート異動であった。
失笑を買うだけなのだが、中曽根女史就任前の小団においては、
実は、入団時に声質で所属パートを判断することをせず、
経験者なら、かつて所属していたを聞き取り、そのパートに直行…。
未経験者なら、音域が比較的狭いセカンドかバリトン行きが無難…というのが通例であった。
しかも、一旦配属されたら、よほど或るパートが少人数化して著しくバランスを崩さない限り、
他パートへの異動はあり得ない話であった。
まぁ、メンバーが自分の好きなパートで好き勝手に歌っていたのだ。
一連の改革進行中のとある日、当時セカンド所属の創立時メンバーの一人が、
指揮者から呼び止められ、バリトンへの異動を打診されたのだ。
それに対し彼は、逆ギレ気味にこうのたまい、要請を正面から拒否した。
「私は絶対にテナーです!」と。
彼は、音取りの際は、音の取れないバリトンに勝手に臨時移動して歌っていたこともあったが、
前指揮者体制下でのパート分けを盲信しているきらいもあり、
彼は頑迷にもそれを受け入れず、その日以来、練習に姿を見せなくなった。
通常、指揮者は客観的に合唱団の演奏を聴くことのできる唯一のポジションである。
だから、全体の演奏をコントロールするという立場から、各個人の声質というものは本人以上に把握しているものだ。
その個人が合唱団に最大限貢献できるパートはどこか、指揮者というものは絶えず探し続けていると言っても決して言い過ぎではない。
創立時のメンバーで、団のオピニオンリーダーの一人でもあった彼を、当初は庇う団員もいて、
彼を辞めさせたい指揮者の策謀だと、深読みで受け取った者までいたが、
次第に団全体の調和という観点から問題行動であると団員から認識され、彼は、孤立感を深めていかざるを得なかった。
彼は、そりゃテナーが好きだったのだろう。好きこそものの上手なれと俗にいう。
しかし、合唱では、単に好きな気持ちだけでは、全体の調和を壊す場合もあるということだ。
そして、合唱団に貢献できる自分のポジションはどこか問い続ける必要が、団員側にもあるのだ。
そこまでかたくなにテナーに拘泥するのなら、このような方は、ソリストに転向すれば良いと思う。
そこで、心ゆくまで思うままに歌えば幸せだろうに。
だがそれは逆に、合唱音楽の特質すら理解していないという裏返しでもあり、そんな体たらくでは、
声質に合わない曲は原則歌わない・歌わせないという独唱の世界でも、
更に厳しい状況が待ち受けているだろうことは想像に難くないのだが…。
仮に大人数の合唱団であったならば、その中で好きなように歌っていただくという選択肢もないとは言えないが、
総団員数が高々十数名の当時の団にはその余裕が全くなかったのだ。
彼の行動は団にとって長期的に決してマイナスに働かなかった。
その問題行動は、団員に合唱というもの、そして団体芸術というものを深く考えさせたのだから。
そして、それを機に団は小さな第一歩を踏み出すことが出来たのだから。
ほかにも、過去に団を去っていった人達のことを思う。今でも戻ってもらって一緒に歌えたらと切望する。
彼らへの愛惜の情は徐々に薄れゆくものだが、合唱団の来し方を振り返るにあたって、
彼らが去っていった意味や意義というのも、時間が経つにつれて客観的に考えられるようになるものだなと思った。
彼らの足跡は決して無駄ではなく、歴史の必然性を秘めたものであったのかも知れない。(つづく?)
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