特集

2009年2月 9日 (月)

「不毛の原野を拓く」について

この「特集」カテゴリに属する記事作成の目的には、無論、特定の個人を中傷する意図は含まれていない。

あくまでも、創立20周年を機に来し方を振り返り、小団の歴史の必然性を示そうとする試みの一つであるとでも言おうか。
記事の登場人物がかつて在団し、このように去っていったからこそ、
今の前橋男声合唱団が健全な形で存在するのは疑いようのない事実である。
だからこそ、その団員の去っていった背景を照らし出すことに大きな意義があると思ったのだ。

ただ、当時においても現在においても、常識に照らして、その登場人物はぶっちぎりの「変人」であるから、
その行動に対して沸き上がる反感については大人の人間的感情として看過できない部分であり、
これを素直に表現する方が寧ろ自然であると考えたので、
表題の「←」印以降に、いささかエモーショナルな記述をその都度施した次第である。

もちろん、より多くの人々と男声合唱を通じて交歓し、趣味として究めていこうという団の大方針は今後も不変だろう。
所詮は趣味の世界であるのだから、そこまで考えなくとも…と、
重戦車のような活動方針を疑問視する論調がかつて団内の大勢を占めていたことがあったが、
趣味だからこそこだわりたい…という強い気持ちと、確かな行動力というものがこれらを凌駕し、
今の前橋男声合唱団を形造っている。

かつて、在団した人々。
彼らに、感情のもつれさえ残っていなければ、今の我々の姿を見せてあげたい。
そして、思いを伝えたい。

「おかげさまで、今度5回目の自前演奏会を開きます。
 そして、団員25人、元気で頑張っています」と。

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2009年2月 5日 (木)

不毛の原野を拓く3…「オレひとり位いなくても大丈夫だよね」 ←ドタキャンしておいて大丈夫なわけないだろう

今回も、前回に引き続き記念すべき第一回演奏会直前に起きたハプニングである。
時は、平成8年(1995年)4月。
前回掲載した、X氏による突然の退団ショックから立ち直れない時期の事件である。

実は、この件は、既にここに書いている。
その時は、その文中で断っているように、槍玉に挙げる意図はなかったが、
今回もやはり槍玉に挙げるという程ではなく、背景を加えて説明してみたい。(笑)

今回登場するのは、ベースのY氏。

時期は、4月下旬だった。
X氏の事件を忘れようと努力していたその頃、私は既に4回続けて練習を休んでいたY氏を心配していた。

この方も、当時のベースの核として活躍していた。
技術はともかく、生まれつき響きの豊かな声に恵まれ、
その存在だけで、ベースの響きに芳醇な味わいが加わるようだった。

当然、彼の不在は、ベースのパートとしての求心力を欠く事態を招き、
その不在期間が長引くにつれ、その影響はベースのみならず、団全体に拡散しつつあった。
しかも、第一回演奏会で演奏する、とある一曲でのソリストに指定されていたこともあり、
彼の去就が残された団員に対して、大きな力を及ぼすだろう事は誰にでも想像がついていた。

当時、パートリーダー職は存在せず、団内のあらゆる雑事はマネージャーの仕事であった。
気後れしながらも、私は彼に電話を入れた。
もちろん、練習に来るよう頼むためにである。

しかし、やっと連絡の取れた彼からの回答は「否」であった。
理由を尋ねると、何やら本番当日に、彼にとっての別の演奏機会が重なっていて、
そっちを優先するとのことで、オンステしないから即ち当分練習にも出席しない、と。

結局、
 「オレひとり位いなくても大丈夫だよね」
というセリフで、電話は切られたのだった。

本番一ヶ月前にドタキャンしやがって、大丈夫なわけないだろう!?

結局、彼は掛け持ちする他の合唱団と前橋男声を天秤にかけたのである。
その結果、前橋男声は捨てられたというわけだ。

実は、合唱後進県「群馬」では、ちょっと声が良いだけで、いろんな合唱団から「ウチに来て」などと声を掛けられ、
引く手あまたの様相…という展開に至るケースが多い。この話は決して冗談ではないのだ。
確かに嫌な気分はしないだろうしね。

彼はそのクチである。
人も良いのかな。いろんな合唱団等に顔を出し、なおかつ、いまだにどこにも定着できていないはずだ。
一年くらいして、男声合唱がまたやりたくなったのかねぇ、
何食わぬ顔して練習場に来たので、よくおいでになりましたね!と、笑顔一杯に迎えてやったっけな。
第二回演奏会はオンステしたけど、その後、またぷっつり来なくなっちゃってなぁ。

まぁ、そういう合唱との気分的な接し方を全否定はしないけど、
長期的な活動継続を前提とする合唱団にとっては、なんとも迷惑な話だぁね。

果たして、ソロのお鉢は私に回ってくることに。(2曲目のソロとしてだよ、2曲目!)
一ヶ月前にソリスト変更はキツイだろ。


こうして、利己主義に凝り固まった方々からの洗礼は、まだまだ続くのだった・・・

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2008年12月27日 (土)

不毛の原野を拓く2…「あんた、そんな態度じゃ音楽にならないよ」 ←楽譜を捨てて去ったくせに偉そうなこと言うな

これも平成8年(1996年)の話なので、もう12年以上前になるか。

中曽根指揮者就任以来、幾つかの改革を進めてきたが、
そのうちの大きな一つが、新聞広告掲載による団員募集であった。(平成7年=1995年に実施)
その結果、4人の新団員を獲得したのだが、今回紹介するのはそのうちのお一人だ。

そのお方(仮に”X”と名付けよう)は、トップテノールに属していた。
音楽的素養もあり、金管楽器を器用にこなし、別途海外での音楽活動経験も有するという、
当時の団にとっては全く稀有で重要な存在であった。

記念すべき第1回演奏会まで二ヶ月を切った平成8年(1996年)4月の、とある練習日のことだった。
この日に限って、トップが一人も出席していない。しかも例によって無連絡だ。
他のパートは全員とはいかないが、概ね揃っているという状況。

団長も不在のその日、演奏会直前ということもあり、このままでは練習にならないため、
マネージャーという立場上、これを放置するわけにもゆかず、やむにやまれぬ気持ちで、
私は、当時の練習場の電話を借り、一番近傍に住むXの自宅に電話を入れた。
(当時は携帯はほとんど普及していなかった)

すると、Xの奥様が電話に出、団名と名を名乗り、Xに代わって欲しい旨伝え、
事情を訴えるも、奥様は、なぜか声の表情が訝しげな調子が変わらない。
私もまだ若かったのだ、その時点で状況を察知できなかった。

そう、その日、Xは練習に出かけると言って既に家を出ており、
実際には練習場に向かわずに、どこか別の場所に出かけていたらしいのだ。
(行き先がどこであるかは、ここでは問題でないので、想像にお任せする)

Xが帰宅後、奥様と大もめになったのは想像に難くない。

翌週の練習日、彼は練習場に現れるや、強張った形相で、真っ直ぐに私のもとへやってきた。
状況を半ば察していた私は機先を制するつもりで、こう言った。

 「先週は突然連絡してすみませんでし・・・」

だが、Xはこれを上回る勢いで、こうセリフをかぶせてきたのだ。

 「あんた、そんな態度じゃ音楽にならないよ!」と。

そして、踵を返すや、このまま練習場を後にして、二度と戻ることはなかったのだった。

筆者はXの過剰反応ぶりにただただ悄然とするしかなかった。
彼は音楽的にも優れており、彼なしでの第1回演奏会は考えられなかった。
やりとりを見守っていた他の団員達に事情を話すと、私に非は無いと慰めてはくれたが、
成り行きではあったが、その日、浅い考えで彼の自宅に電話を掛けたことを悔いた。

中でも、彼の最後の(捨て)台詞は、運営を預かる立場としての適性を自問させるに充分であった。

しかし、この日の練習が終わり、ふと練習場の片隅にあるゴミ箱を見やると、
無造作に何かの書類が投げ捨ててあるのだ。
不審に思い手に取ってみると、何と楽譜である。しかも、Xのだ。
その時は気がつかなかったが、去り際に投げ捨てて行ったのだろうか。

この瞬間、私は彼の事実上の退団に納得できたのだった。
どんなに音楽的素養に優れた人でも、楽譜を捨ててしまえるという感覚というものは、
私には理解が出来ない。どんなに怒り心頭であってもだ。

音楽が愛おしくないのか。ましてや、楽譜には罪はない! (笑)
楽譜を捨てて去ったくせに偉そうなことを言うな。

その程度の人間なら、退団上等である。
だから、練習も平気で休めるのだ。きっと、アマチュアの合唱練習を見下していたのだろう。
そんな人間が、日常、堂々と楽器を演奏し、人様に音楽と称して聴かせている事自体驚きだ。

今振り返るに、きっかけは私の若気の至りであったが、
折り合える余地は充分にあったものの、彼の直情的な行動がそれをさせ得なかった。

それとも、彼の怒りは、私の想像を遙かに越えた域に達していたのであろうか。
この謎は、一生解明されることはないだろうけど、
Xが捨てて行った楽譜は、大事に今もとってある。(彼は戻って来ないが)



携帯が普及した今は、こういう行き違いはなかなか生じにくくはなった。

合唱団員貴兄に告ぐ。
どうしても自由時間が欲しくば、正規の練習日以外の時間帯に設定すべし。
臨時練習でも臨時パー練でも何でも入ったと言い訳するが良い。
筆者の所にご家族から確認電話が来ても、今は機転を持ち合わせているので、ご心配なく。
きっと上手く説明もできよう。(笑)

・・・この時期、不毛な大地の開拓は、緒についたばかりであり、
魑魅魍魎(ちみもうりょう)との戦いはまだまだ続くのだった。(笑)

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2008年12月 9日 (火)

不毛の原野を拓く…「私は絶対にテナーです」 ←だったら独唱に転向すれば良いのに

現在、来年の創立20周年のために、勝手に20年史を執筆中である。
その20年史からは漏れるが、これはというエピソードを今後、ネタとして紹介できたらと思っている。
今回はその第一弾。(というと、今後も続きそうだが、一回で終了するかもしれないです)

平成7年(1995年)頃の話だから、もう13年以上昔の話になるが、
その頃、団にはまだ、創立時のメンバーが2〜3人残っていて、練習の進行に力を発揮していたことがあった。

当時の団員数は10名をやっと越える程度。
各パート0〜2名などという練習環境は日常茶飯事だったので、
そういう積極的なメンバーが音取りのままならないパートに臨時で異動(というよりは「移動」かな)して、
全体がようやく合唱として成立するのに一役買っていたなんてことがあったのだ。
古き良きコーラス風景とでもいおうか…。

その前年、前橋男声合唱団には大きな転機が訪れていた。
創団以来の指揮者がそのポストを辞去し長期間空席となっていたが、
中曽根敦子氏が、正式に常任指揮者として後を襲ったのだ。
このことは、小団サイト15年史(こちら)に詳しい。
翌年の平成8年(1996年)に第1回自前演奏会で成功を収めるべく全権を委任された中曽根女史は、
様々な技術的改革に着手する。その一つが、適材適所を求めるパート異動であった。

失笑を買うだけなのだが、中曽根女史就任前の小団においては、
実は、入団時に声質で所属パートを判断することをせず、
経験者なら、かつて所属していたを聞き取り、そのパートに直行…。

未経験者なら、音域が比較的狭いセカンドかバリトン行きが無難…というのが通例であった。
しかも、一旦配属されたら、よほど或るパートが少人数化して著しくバランスを崩さない限り、
他パートへの異動はあり得ない話であった。
まぁ、メンバーが自分の好きなパートで好き勝手に歌っていたのだ。

一連の改革進行中のとある日、当時セカンド所属の創立時メンバーの一人が、
指揮者から呼び止められ、バリトンへの異動を打診されたのだ。
それに対し彼は、逆ギレ気味にこうのたまい、要請を正面から拒否した。

「私は絶対にテナーです!」と。

彼は、音取りの際は、音の取れないバリトンに勝手に臨時移動して歌っていたこともあったが、
前指揮者体制下でのパート分けを盲信しているきらいもあり、
彼は頑迷にもそれを受け入れず、その日以来、練習に姿を見せなくなった。

通常、指揮者は客観的に合唱団の演奏を聴くことのできる唯一のポジションである。
だから、全体の演奏をコントロールするという立場から、各個人の声質というものは本人以上に把握しているものだ。
その個人が合唱団に最大限貢献できるパートはどこか、指揮者というものは絶えず探し続けていると言っても決して言い過ぎではない。

創立時のメンバーで、団のオピニオンリーダーの一人でもあった彼を、当初は庇う団員もいて、
彼を辞めさせたい指揮者の策謀だと、深読みで受け取った者までいたが、
次第に団全体の調和という観点から問題行動であると団員から認識され、彼は、孤立感を深めていかざるを得なかった。

彼は、そりゃテナーが好きだったのだろう。好きこそものの上手なれと俗にいう。
しかし、合唱では、単に好きな気持ちだけでは、全体の調和を壊す場合もあるということだ。
そして、合唱団に貢献できる自分のポジションはどこか問い続ける必要が、団員側にもあるのだ。

そこまでかたくなにテナーに拘泥するのなら、このような方は、ソリストに転向すれば良いと思う。
そこで、心ゆくまで思うままに歌えば幸せだろうに。

だがそれは逆に、合唱音楽の特質すら理解していないという裏返しでもあり、そんな体たらくでは、
声質に合わない曲は原則歌わない・歌わせないという独唱の世界でも、
更に厳しい状況が待ち受けているだろうことは想像に難くないのだが…。

仮に大人数の合唱団であったならば、その中で好きなように歌っていただくという選択肢もないとは言えないが、
総団員数が高々十数名の当時の団にはその余裕が全くなかったのだ。

彼の行動は団にとって長期的に決してマイナスに働かなかった。
その問題行動は、団員に合唱というもの、そして団体芸術というものを深く考えさせたのだから。
そして、それを機に団は小さな第一歩を踏み出すことが出来たのだから。

ほかにも、過去に団を去っていった人達のことを思う。今でも戻ってもらって一緒に歌えたらと切望する。
彼らへの愛惜の情は徐々に薄れゆくものだが、合唱団の来し方を振り返るにあたって、
彼らが去っていった意味や意義というのも、時間が経つにつれて客観的に考えられるようになるものだなと思った。
彼らの足跡は決して無駄ではなく、歴史の必然性を秘めたものであったのかも知れない。(つづく?)

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